地震の日のこと

3月11日に東北地方太平洋沖地震が起きたとき、いつも通り会社で仕事をしていた。

「あれ、揺れてるね」と同僚たちと話しているうちにどんどん揺れが激しくなってきた。上の階から何かをひっくり返したようなガン!ガン!という音がしたり、建物全体がミシミシと異様な音を立てていて、ビルが崩れるんじゃないかと恐ろしかった。そんな中でも周りの人たちは意外と落ち着いているように見えたけど、私はもともと揺れや振動に過敏なタイプなので、いつまでも収まらない激しい揺れが怖くてギャーギャー騒いでいた。

とても長く感じたけど実際には2〜3分だっただろうか。私の会社は免震ビルの7階にあるため、ゆらゆらとよく揺れ、地震が収まった後もしばらく揺れていて、船酔いしたみたいに気持ち悪かった。しかも、ほっとしたところへまた余震。いつまでも揺れているような感じが続いた。実際、余震は何度も続いたんだけど、だんだん肩が凝ってきて「揺れるのって疲れるねえ」と同僚と話していた。

ちなみに私の上司はこのときエレベーターに乗っていたそうで、激しい縦揺れのあとこれまた激しい横揺れがきて、死ぬかと思ったそうだ。地下1階で非常停止して、ドアが開いたところで停電したとのこと。閉じ込められずに済んだのは幸いだったけど、その後エレベーターは動かないし非常階段も一時封鎖されていたため戻って来られず、しばらく行方不明として心配されていた(TwitterのDMで連絡が取れた)。

地震直後からすでに携帯の通話規制は始まっていたのかもしれないけど、私と夫、母はWILLCOMなので、余裕でつながった。こういうときWILLCOM最強。母はちょうど自宅の外にいたそうだけど無事だった。夫はちょうど電車に乗って出るところだったがすぐ停車して、ホームに降りたら何かに捕まらないと立っていられなかったそうだ。2人とはすぐ連絡がついたが、息子の保育園には最後まで電話がつながらなかった。震源地は東北地方ということが分かり、保育園と自宅のある地域はそれほど被害はないと予想はできたけど、連絡が取れないのは心配だった。


そのうち同僚が持っていたワンセグや上司が見つけたUstの映像、ラジオなどから情報が入ってきて、だんだん明らかになる被害状況に驚いた。でも、この時はまだこんなに大規模な災害になるとは実感がわかなかった。

会社のビル自体が避難地域に指定されているため、特に避難することなくとどまっていたけど、余震が何度も続くためもはや仕事にならなかった。電車も止まってしまったので、どうやって帰るかという話になりつつあった。定時1時間前の17時15分ごろ、電車は復旧しないだろうから帰れる人は帰ってよしということになった。夫からTwitterのDMで歩いて帰るという連絡があったのも同じ頃。とにかく帰って保育園に行かなければと思い、同じ方向の同僚と一緒に私も帰ることにした。17時半だった。

タクシーを拾って行けばという話もしていたけど、タクシーはもう捕まらないという情報がTwitterに出ていた。これはもう歩くしかないと腹をくくり、まずは皇居のお堀に沿った内堀通りに出た。同じように歩いて帰ろうとするスーツ姿の男性やパンプスにスカートのOLさんがたくさんいて、異様な光景だった。みんな一緒だと思うと安心して、この時はまだ私も同僚もちょっとしたウォーキング大会のような気分だった。こんな写真まで撮ってたし。
歩いて帰るなう。たくさん人が歩いてる!

なんとなく国道246を目指せば良いことは分かっていたけど、どうやってそこへ出るのかよく分からないので、iPhoneの地図を見ようとしたら、会社から離れるにつれまったくつながらなくなってしまった。そこで、こんなこともあろうかと普段持ち歩いていた「震災時帰宅支援マップ」のコピーを見ながら進んだ。以前、この本が流行ったときに、都心から自宅までの道をコピーして貼り合わせて作ったものなんだけど、まさか本当に役立つ日がくるとは思わなかった。でも、持っていて良かった!

桜田門を過ぎ、三宅坂までお堀沿いの道をひたすら歩くと246に出た。永田町付近にコンビニがあったので、ここでトイレ休憩。時間は19時15分ごろ。会社を出てからすでに2時間近い。私は水を、同僚Kさんは水とおにぎりを持ってきていたけど、このコンビニでチョコも買った。すでに日も暮れ、コートのフードをかぶらないと寒いくらい風が冷たく、おなかもすき始めていたので、久しぶりに食べた白いダースはとても美味しかった!

さて、246に出ただけで安心して達成感もあったけど、ここから先がものすごく長かった。標識には渋谷へ5kmと出ていた。赤坂見附付近を歩いているとき、夫から息子と無事会えたというメールがきた。かなり早足で歩いて2時間かかったとのこと。それでも19時半ごろなので、結局いつものお迎え時間と変わらない。息子を不安にさせずに済んでホッとした。

渋谷が近くなるにつれ、歩いて帰る人が増えてきた。この先は人が多くて何か食べることができないかもしれないと思い、外苑前付近で夕飯を食べることにした。松屋は混んでいる様子だったので、比較的すいていたフレッシュネスバーガーに入った。時間は20時過ぎ。すっかり体が冷えていたので、ジンジャーティーを飲んで温まった。

すでに足が痛くなっていたけど、食べたら少し元気になった。表参道まで来たところで銀座線が動いているという情報をキャッチしたので駅へ行ってみた。駅員さんに聞いてみたけど、半蔵門線の一部と銀座線が動いているのみで、東急線の下り方面は復旧のめどが立っていなかった。ひとまずひと駅だけ銀座線に乗って渋谷へ行った。

渋谷はカオスだった。銀座線を降りて宮益坂方面の出口を出てみると、東横線との連絡通路の階段の両脇に人が座っていたり、東横線改札前に大勢人が並んでいたり、駅構内にたくさんの人が座り込んで電車が動くのを待っていた。バスロータリーも、並ぶ人で大行列ができていた。時間は21時半ごろ。

渋谷駅を抜けて再び246へ出ると、車の渋滞ぶりが半端なかった。ほとんど進んでいない。渋谷からバスに乗る手も考えていたけど、あの行列とこの渋滞を見たら歩いたほうが早いと思った。同じように思ったのか、歩いている人もたくさんいた。すぐ近くの車道に車の列があり、人も多いせいか、永田町付近を歩いているときよりは不思議と暖かく感じた。この頃にはiPhoneがつながるようになったので、Kさんとリアルに会話しつつTL上のいろいろな人とも会話しながら進んだ。みんな心配してリプライやDMをくれてありがたかった。

池尻大橋あたりで、これはもう二子玉川まで歩ければ上出来じゃないかと思うほど足が痛くなっていた。途中のバス停で、行き先不明の東急バスが停まっていたので見に行ったら、すでにたくさん人が乗っていて「次のバスに乗ってください」と職員さんが言っていた。次のバスっていつ来るの??ということで、また歩いた。

三軒茶屋駅を過ぎたところでまたコンビニに寄ってトイレ休憩した。渋谷からここまで来る途中のコンビニはトイレ大行列で、とても入れなかった。ふとTwitterを見たら、電車の運行再開という夫のツイートを見つけた。携帯にもメールをくれた。ナイスアシスト。すぐに三茶の駅まで引き返し、首尾よくホームに並んだ。時間は22時55分ごろ。Kさんのダンナさんも会社の人に車で送ってもらって無事自宅に着いたという連絡があり、ほっとひと安心して電車を待った。

23時ごろ渋谷発の電車が来たけれど、すでに乗車率120%みたいな状態。これは絶対ムリムリ!と思って1本見送った。2本目になんとか乗り込み、ギュウギュウ詰めの圧力に耐えながら帰った。すでに足はパンパンだったし腰も痛くてたまらなかったけど、これ以上歩くのは無理だと思っていたので本当にラッキーだったと思う。

徐行運転だったので通常の倍くらいかかって最寄り駅に着き、家に着いたのは日付が変わる頃だった。着いた途端にまた余震があったり、神経過敏になっているせいもあって、この日はなかなか寝付けなかった。それでもお風呂に入り、2時には寝られた。

それにしても、まさか自分が帰宅難民になる日がくるとは思わなかった。よく、いざという時に備えて職場から歩いて帰る練習を、というけど、ぶっつけ本番で実践してしまった。それで分かったことは、歩けるのは三茶までが限界ということ。首都圏が震源地の場合は道の状態が悪い可能性もあるし、停電していたらこんな風に呑気に歩くことはできなかったかもしれない。子供を持つ親は、やはり職場と自宅・保育園(学校)が近ければ近いほど良いと改めて思った。いろいろと考えさせられる体験だった。